工具と時計の両輪で異彩を放つ協和精工―2000年に切削工具「KYOWA」2005年に時計「MINASE」 鈴木社長本紙初登場
代表取締役 鈴木 豪
切削工具と腕時計の両事業を密接な関係性に捉えて発展させてきた協和精工を訪問。代表就任10年目を迎えた本紙初登場となる鈴木豪社長にインタビューを行い、創業からの経緯に、注力している工具や腕時計の魅力を織り込んでもらいながら、次代を展望してもらった。
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協和精工の創業は1963年、鈴木社長の父で、秋田出身の現最高顧問相談役の鈴木耕一氏が20歳で立ち上げた。15歳の時に集団就職で上京。江戸川区にある山本精工に就職し、切削工具のイロハを学んだのが出発点だった。
治工具の製造や工具の再研磨を手がけるなか、腕時計のケース加工を手がける顧客から「(竜頭部に)段付きの穴をあけたい」との要望を受け、段付きドリルの開発に着手、高評価を得たことが時計業界に参入するきっかけとなった。
67年に江戸川区から千葉・柏市に移転し、回転工具の量産をスタートさせ軌道に乗せながら、83年には秋田に工具製造を担う羽後工場を完成させる一方、時計事業では73年に秋田・湯沢市で湯沢工場を新設し時計ケースの部分加工に着手。両事業の秋田での製造開始は、現在の協和精工の「原型」を形成していくことになる。
90年に超硬ボールエンドミル開発に成功し、2000年には自社ブランド「KYOWA」を立ち上げ、切削専門問屋サカイとの取引が始まり「0・01トビでサイズラインナップを展開、特色を出す」ことに努めた。
ところで鈴木社長が協和精工に入社するのは1999年、27歳の時で、社内にはバブル後遺症が残っていたと言う。
「工具、時計両部門の製造を手掛ける、それぞれの秋田工場で1年間の研修の後、当時、時計のアフターサービスを手がけていた柏営業所の配属となり、時計のOEMの営業に乗り出した」。
ケース加工をメインに手がけていた時計事業は、バブル崩壊後、7割減を余儀なくされ「時計の完成品を作っていこう」との方針を打ち出し、受注先を見つけるのに全国各地を奔走。ジュエリー業界の時計や小ロット対応の、種類の多い時計づくりで、技術を磨き、研鑽を積んでいった。
「ケースの部分加工からケース全体、そして時計完成品のOEMメーカーとして発展した時計事業は、自分たちの理想の時計作りをしたいという思いからプロジェクトを開始し、05年には自社ブランドを立ち上げることに成功した」。
工具に次いで時計部門でも自社ブランドを確立。工具は「KYOWA」であり、時計は「MINASE」だ。
「工具はカタログ製品が半分を占め、サカイ、山勝商会を通じた販売。残る半分は特注品で、そのうちの2割がスイスやドイツ、アメリカといった欧米のほか、韓国、中国、台湾などのアジア圏からのオーダーとなる。現在、工具材種としては、超硬からcBN、PCDへと横展開しており、設備面では従来の専用機から、再現性、安定性に配慮し汎用機を志向している」。
「時計は、歪みのない鏡面を形成していくための下地加工「ザラツ研磨」を得意とし、『鏡面とヘアラインのコントラストが生み出す緻密な輝き』を演出。大量生産の工業品ではなく、希少性の高い工芸品との願いを込めている。メンテナンスにおいては、寄木細工にヒントを得た、ケースやバンドのパーツがすべて分解できる『MORE』構造を採用し、いつでも再生研磨が可能。ロゴマークには時計づくりのルーツとなった段付きドリルをあしらっている」。
2014年6月に代替わりを果たして以来、鈴木社長は「自社ブランドを展開していく上で、自分たちは何者か」と常に問うてきたと言う。将来にわたる、品質への拘りそのものに違いない。
時計研磨
切削工具現場